「天気の子」、都市、非合理性
2021/01/03
地上波で放送されていたので再度見た。とても良かった。自分は「君の名は。」よりも好き。やはり自分の中での新海監督のマスターピースは「秒速5センチメートル」であるものの、「天気の子」は次点につく。
「天気の子」に関しては、その展覧会も見に行ったことがある。展覧会では新海監督が、特に「君の名は。」と対比しながら、主人公らの生まれや葛藤について語っていた。
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当作品は題材が非常にわかりやすく、また我々にとって「そうである」と感じさせやすいために、よく批評されている感覚がある。一方で、議論を呼ぶからこそ慎重になった方が良いとも考えていて、ともするとTwitterに「○○のシーンがXXなのはYYを表している……最高……みんな見て…………」みたいな毒にも薬にもならない雑文になってしまう。換言すれば、この作品について述べなさいと言われた際、万人がそれなりに小一時間くらいは議論できてしまうので、作品が衆愚に埋没する恐れがある。
このように長いエクスキューズを付した上で、以下は批評ではなく感想となる。感想については、とにかく人と違うことを想起して書いてみることが重要だと思う。
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自分が抱いた感想で、たぶんあまり指摘されていないだろうものは、都市と冗長性についてだ。
都市のスケール
経営学では規模の経済がよく知られているが、これは都市についても当てはまる。 Bettencourt et al.(2007)は、都市のサイズが大きくなるほど、都市の代謝率が高まっていくことを明らかにした。都市のサイズが2倍になれば、1人あたりの所得や特許の数、教育機関の数などが平均15%ずつ増加する。都市はスケールメリットがあるのだ。ちなみに、この論文は2021年1月時点で、2,000件以上引用されている。
この発見により、都市は抜本的な見直しを迫られた。より高く、より密に都市を作っていくことで、人は一層都市に集まっていく。イノベーションが多く起こり、魅力的なイベントが開催され、エネルギー効率(Cf. 公共交通機関)が高まっていく。日本ではどこだろう。まさしく東京だ。では、この合理的な都市形成について、人に注目するとどうか。
非合理/非論理な人間関係の喪失
少し迂遠な説明をしよう。一応、自分は研究をしている。研究において、特に自然科学で顕著であるが、対象を扱う際に研究者自身の偏見を極力取り除くよう努力する流派がある。一般に「科学」と呼ばれた際、我々はこうした客観性を求めるのではないか。では、こうした客観性は、本当に担保できるのだろうか。結論は出ていて、非常に難しい。
研究者自身のバイアスは除去できない。こうした転回から、フェミニズムとかクィア理論などが生まれてくるわけであるが、詳細は省く。重要なのは、これらを含む社会科学へのバックラッシュが、一般に大きいことだ。Twitterによくいるし、最近は議員も言ってる。主観に依拠し、バイアスが混ざった社会科学はいらない。外部から説明可能な事象のみ許容する。こうした主張は、現代社会からカッコ付きの「非合理性/非論理性」が排除されつつあることの傍証とならないだろうか。この「非合理性」は、「あそび」とか「冗長性」と捉えてもらって構わない。
一昔前の人間関係は、どこか冗長性を内包したものだったように感じる。端的には愛とか恋であるが、隣人づきあいとか、そういうのを含む。徹底的に合理化された都市では人間関係も合理化され、こうした冗長性は失われている。家長父制を肯定しないことを付しながら、「逃げ恥」の家事賃金化を思い返せばわかりやすいだろう。話は逸れるが、「逃げ恥」の主題歌が「恋」なのは、この点でねじれており、だからこそそうした「恋」が肯定されるのは面白いなという感想もある。
狂った世界
話を戻す。合理化された都市で進展する、非合理な人間関係の排除。新海監督は「天気の子」のパンフレットの第一文で、「今回の作品の柱としていちばん根本にあったのは、この世界自体が狂ってきたという気分そのものでした」と述べてみせた。最高にパンチの効いた文章だ。上の非合理性の排除は、こうした狂気に含まれるような気がしてならない。
「天気の子」の終盤、東京は水没する。上述の論文が、効率性に代表される合理主義的な考え方を背景にしていることに注意しよう。合理化された都市で、いつの間にか冗長性が排除された現代の人間関係を一掃するカタルシスが、視聴後の胸中に渦巻いているような気がした。
言い訳かもしれないが、ここまで冗長性の是非を問うていないことの意図を汲んでほしい。自分だって飲みニケーションみたいなのは苦手だし、選択的夫婦別姓にも賛成している。しかし一方で、過去との連続性が断絶していることには注意を払うべきとは思う。この考え方を過激にしたとき、「狂った世界」という一面を覗かせるのかもしれない。
自分は上記のような合理化にはある程度賛成しつつも、それが行きすぎた息苦しさも同時に理解することができる。もう少し冗長性があっても良いのではないかとも考える。
ニュー・ワールド
ウイルスの流行で世界は変わった。かつて「No Alternatives(他に選択肢がない)」という厭世観で駆動していた社会は宙吊りにされ、オルタナティブの世界へとさっさと移行した。新世界はまだ不安定だ。不安定さを吸収するためにはバッファ:冗長性が必要となる。せっかく動き始めた新世界を悪いものにしないよう、いい塩梅の冗長性を生み出すことはできないだろうか。
ウイルスの最初の報告が上がってきた2019年の年末から、すでに多くの時間が経過している。どこか寂しくなった東京の寒空に浮かぶ雲を眺めながら、もしかしたら自分だけが水没した都市を夢想している。